5.清凉寺

創立者永井泰量先生は彦根市の清涼寺で修行を積みました。明治28年の頃です。

祥壽山清涼寺は井伊直政公を開基として1603年に創建され、井伊家代々の菩提所となっている名刹です。井伊直政公は幼少から家康公に仕え、小牧・長久手の戦いなどにその活躍が目立ちました。関ヶ原の戦いでは本多忠勝とともに監軍として諸大名を統括し、東軍を勝利に導いた武勲は著しく、徳川四天王の一人です。


 清涼寺は彦根市の東北に位置し、佐和山の麓にあります。佐和山には西軍を編成した石田三成公の居城がありました。井伊直政公は関ヶ原合戦第一の功労者として、家康公によって佐和山城に封ぜられたのです。1602年に直政公は卒去します。公の戒名「祥壽院殿清涼泰安大居士」に因んで祥壽山清涼寺が建立されました。


 清涼寺歴代住職は徳川幕府の重臣であった井伊家の権勢をもって全国から高僧を請じましたので、当代第一級の名僧が集まりました。高僧による導きを得て、清涼寺は修行道場として天下に名声を高めます。禅門の雲水が諸国行脚の途上「尊公は清涼寺の沢庵をくったか」と挨拶を交わし、清涼寺の威光を語り合ったといいます。文化年間(1800年代初頭)には200余名の修行僧が薪水の修行をし、清涼寺は世に多くの傑物を輩出しました。


 本学園第2代理事長永井成雄先生に伴われ、彦根市に清涼寺を訪ねました。創立者泰量先生が修行を積み、出世の起点となった清涼寺を自分たちの目で確かめたい思いからです。お手紙で拝観をお願いしました。清涼寺は一般の拝観が許されません。承知していただけるかどうか。気を揉む内に、お待ちするとありがたいご返事をいただきました。


 訪問の日、平成16年3月30日、彦根は激しい雨でした。駅を下りると、井伊直政公騎乗の像が駅前広場正面に立っていました。街には直政公を崇め、直政公を親しむ思いが深く静かに漂っている感じがありました。清涼寺の門前でタクシーを降りました。東に佐和山を背負い、西に琵琶湖を見下ろす位置に清涼寺はありました。琵琶湖の水は昔は清涼寺の山門近くまで達していたといいます。「永井学園さんですか。」東方宗明老師が待っていてくれました。東方老師の名刺には曹洞宗円成寺内と居所がしるしてありました。清涼寺では住職が若く亡くなられたのです。後を継ぐ方はまだ中学生でした。


 大きな構えの客殿に案内されました。境内は正面に本堂があり、本堂をはさんで手前右手が客殿、本堂の左手、客殿に相対する位置に講堂、講堂の二階が200名の僧が修行を積んだ大きな座禅堂でした。清涼寺の由緒記に文化年間には全国唯一の百人詰めの座禅堂だったと記載されています。東方老師の案内で境内をくまなく拝観させていただき、創立者永井泰量先生が修行した往時を偲びました。永井泰量先生が修行した記録は清涼寺に残されてはいませんでした。泰量先生の記録だけではなく、清涼寺は修行僧を逐一記録しなかったということでした。


 清涼寺は岐阜と繋がりが深く、幾代かの住職を岐阜から迎えています。近くに位置する全国有数の修行寺であり、岐阜からは多くの修行僧が清涼寺を目指したと思います。岐阜から彦根は50㎞ほどの道のりです。街道は基幹東海道が京都に向かって延びます。創立者は青雲の志を持って清涼寺を訪ねたであろうと思いました。明治28年は創立者13才の年です。井伊直弼公も清涼寺に参禅して高僧から禅と学問の手ほどきを受けています。井伊直弼公の参禅も13才のときでした。井伊直弼公は250年の鎖国を敷いた徳川幕府にあって、開国を主張した幕末の大老です。安政の大獄では万一を覚悟していたようでした。亡くなる年の正月に、清涼寺で生前の戒名を受けていたと東方老師が語ってくれました。


 永井泰量先生は岐阜県本巣郡蓆田村の出身です。旧姓は松尾でした。明治36年に永井機外氏の養子になって永井姓になりました。調べたところ永井機外氏は埼玉県深谷市にある東雲寺の住職でした。明治の頃まで僧侶は妻帯が許されていません。従って、住職は弟子を養子にして寺を継がせたのです。永井泰量先生は駒沢大学の前身である曹洞宗大学の卒業です。成績優秀な大学の特待生でした。東方老師は清涼寺の本寺は高崎にありますと言われました。高崎は井伊直政公が幕命によって1598年に藩主を務めたところです。井伊直政公はその後1601年に彦根佐和山に移り、佐和山で亡くなりました。井伊直政公を供養する清涼寺の建立は高崎藩ゆかりの寺の後ろ盾によるのではないでしょうか。


 あれが井伊直政公の墓です。東方老師が雨の中の高台を指さしました。井伊直政公を始めとして井伊家代々の墓が大切に祀られていました。檀家は他に僅かを数えるのみです。現在、修行道場は返上したということでしたが、清涼寺は本堂を始め座禅堂も、客殿も泰然として大寺院の風格を放っていました。檀家は多くありませんが、清涼寺の修行僧が全国に在所して清涼寺をもり立てています。深谷の東雲寺もその中の一つであろうと思いました。


 永井泰量先生は清涼寺のゆかりをもって生涯のスタートを切ったのだと思いました。令夫人に挨拶を済ませ、清涼寺をおいとましようと山門をくぐりましたら、東方老師が山門の門標を指さしました。この門標は駒沢大学の校門に掲げられていたものですというのです。駒沢大学から返して欲しいと言われている門標ですといいながら、東方老師は笑っていました。岐阜に生を受けた永井泰量先生は大きな志をもって清涼寺を訪ねたに違いありません。清涼寺での修行が生涯を通しての活動の出発点になりました。恐らく清涼寺のゆかりをもって駒沢大学に学び、永井機外氏と縁故を深めて、関東の地に居を構えるに至ったのであろうと思います。葛生の地に本校が誕生した縁をしみじみ偲びました。