6.開校当時のカリキュラム

 


明治42年4月10日付けで施行になった葛生学館規則は第8条及び第9条で教育課程を次のように定めています。

 第8条 学科目は修身、国語、漢文、英語、数学、代数、法制、幾何、博物、地理、歴史、商業、簿記法、撃剣、弁舌練習とす。
 第9条 各学科過程及び教授時数は左の如し。



学年別 第1学年 毎週授業時数 第2学年 毎週授業時数
修身 道徳要領 一 同左 一
国語 講読・文法・作文・習字 八 同左 八
漢文 講読・文法 五 同左 五
英語 読方・解釈・作文・書取・習字 六 同左 六
数学 算術・珠算・代数 五 珠算・代数・幾何 五
法律 法制大意 二 法制・経済 二
科外 生理衛生・地歴 二 博物・経済 二
実践商業 二 簿記法 二
演説練習 一 同左 一
撃剣 一 同左 一
合計 三十三 三十三



 教科は一般教養科目の他に実務に即応する商業実践や簿記があり、さらに専門にわたる法制、経済が配当されています。演説練習も明治40年代の中学校としては特異な教科といえるでしょう。生徒は小学校6年を卒業したばかりの中学生です。法律の概要や経済財政の大要を掌握する専門教科の履修にはかなりの困難が伴ったのではないでしょうか。
 明治40年の頃、佐野中学校では5年次の教育課程で法制経済が配当されていますが、因みに佐野中学校の毎週履修時間数は1年生30時間、2年生31時間、3年生から5年生までが32時間でした。


 学を興して地域文化の向上を図ろうとする創立者永井泰量先生の決意は固く、有意の青年をして視野を広げ、独善的あるいは消極的な姿勢を改めさせ、社会に積極的に関わらせたい思いは徹底していました。授業料を低く抑え、修業年限を2年にしたのは経済的な障壁を取り払う学びの門戸の開放です。教育課程には一般教養科目から専門科目までを配し、2年の履修で中学校5年課程の実力を養うために、中身の濃い授業展開に腐心しました。


 葛生学館第8回大正7年卒業の永島信吉氏によれば、教科書は国語に落合直文他合著の国文教科書、簡野道明の漢文、英語はナショナルリーダー等でした。昭和21年葛生商業学校第3回卒業の大森久雄氏は昭和17、18年の頃、弁当2つを持って登校したと往時を回想しています。登校時刻が早いので弁当の1つは登校して学校で食べ、1つは昼食用です。昭和17年葛生農商学校第16回卒業の亀田好二氏は隣町からの徒歩通学で、午前2時から3時には家を出て提灯の灯りを頼りに山越えをしたといいます。暗い山道はお化けが出そうで怖かったと語っていました。


 学校開校の頃の授業の様子を創立者は家人に語っています。一日の授業時数は6時間にも7時間にも及びました。昼休みなどを特に設けず、生徒は手の空いた時間にめいめい勝手に昼食を摂りました。毎日試験を課し、採点は放課後に行い翌朝には結果を発表する毎日です。綴じられた答案がテーブルに並べられ、閲覧に供されました。生徒は刺激を得て学習に熱が加わったと思います。2年の課程を修業した葛生学館第1回の卒業生は6名でした。第2回卒業が4名、第3回10名、第4回11名と続いて、第8回大正7年に卒業生は35名になります。卒業生は漸次増加して大正12年の卒業生は52名を数えましたが、この頃までは授業を担当した先生は永井泰量先生と内田修禅先生の2人でした。


 毎日課せられる試験は生徒にとってかなりの負担であったでしょうが、採点する側も夜中の作業ですから苦労は一通りではありません。葛生学館時代を通じて中身の濃いハードな授業が続けられました。2年の修業で5年の成果を追求した葛生学館の取り組みは本校の伝統になって葛生農商学校に受け継がれ、形を整え、実を追求する本校の姿勢となって現在に活きています。