9.葛生学館の教室

 

創立当初、葛生学館の教室は善増寺の庫裏でした。生徒が増えるに従って、教室は庫裏から本堂に移りました。以来、大正14年に木造2階建て6教室校舎が建つまで、生徒は本堂を教室にして授業を受けました。本校資料室には寺院並びに境内を私立学校用として使用することを認めるとした県文書の控えが残っています。文面は次の通りです。


 収三第二九五号
                    安蘇郡葛生町大字葛生善増寺住職
                       永  井  泰  量 外五名
 明治四十三年一月十付願私立学校用として向五ヶ年間寺院並に境内使用の件
 許可す。
    明治四十三年三月九日
                      栃木県知事 中 山 己 代 蔵 印   
  
 
 本堂の姿は今も創立の頃と変わりません。本堂正面にご本尊釈迦牟尼仏が祀られ、ご本尊の前は20畳の広間になっています。正面広間の両袖に広間が続き、ご本尊に向かって右手にあたる東側の手前が10畳、その奥が8畳の間です。本尊に向かって左の西側も東側と同様、手前に10畳、奥に8畳の間が続きます。正面と両袖広間の南側には幅一間の広縁が東西に通っています。ご本尊正面の20畳の間を残し、両袖にあたる東西の部屋が葛生学館の教室にあてられました。西を1年生、東を2年生の教室として、中学校5年にあたる葛生学館2年の課程が教授されたのです。
 生徒も先生も着衣は和服でした。生徒は紺絣の和服にごつごつした小倉袴を履いて、広い肩掛け紐のついた白ヅックの鞄を右肩から左へと下げ、白線が2本入った学帽を被って登校しました。鞄には教材と弁当二つを入れます。生徒は野上、寺尾、皆川、小野寺など遠方から多くは徒歩で通いました。三好村から徒歩で通った佐野商工会議所会頭であり、本校理事である亀田好二さんは朝の3時頃に家を出、提灯を下げて山を越えたといいます。暗い山道はお化けが出そうで怖かったと当時を回想していました。尻内峠を越え、永野から通学した粟野町農業協同組合の組合長を務められた本校理事大森喜久雄さんは自転車を漕いで雪道を登校したが、学校に着いたら授業が終わっていたことがあったと話していました。生徒の年齢構成には幅がありました。小学校を卒業したての13才の童顔から20才に近い一人前の大人までが同じ机を並べました。葛生学館を目指した生徒の意気込みは尋常でなかったのです。
 鞄に入れた二つの弁当の内の一つは学校に着いて食べる朝食です。残りの一つは昼食用ですが、決まった昼食の時間はありませんでした。授業と授業の合間に、めいめいが思い思いに昼食を摂りました。始業から終業まで授業時間がぎっしり組まれていたためです。カリキュラム上の授業は1日6限ですが、創立者が語ったところでは、課外授業が日常的でした。
 葛生学館を通じて先生は創立者と、葛生学館第1回卒業生の内田修禅先生の二人でした。二人がそれぞれ2年と1年を担当し、国語から漢文、数学、修身、英語の全てを教えました。生徒は創立者の識見と学識を慕い、教科に貪欲に取り組んだのです。朗々と漢文を朗読するよく通った創立者の美声と、「外史氏曰く」と語る日本外史の講義などに生徒は興味をそそられたようです。授業には試験が課せられました。試験はその都度採点し、寸評を加えて綴じられ、本堂正面の広縁に置かれた机の上に並べられました。個人別成績一覧は学期毎に詳細に書き出され、障子に張られました。成績一覧が発憤の動機になったと葛生学館第3回卒業生の片柳嘉平元本校教諭が創立50周年の記念誌に書いています。
 本堂の東には庫裏が続いていて庭に池があります。冬には池を見ながら生徒は本堂の廊下に腰を下ろして1年も2年も一緒になって和気藹々と日向ぼっこをしたり、夏には裸で池に入って鯉を捕まようとする元気のいい者もいました。勉強も熱心でしたが、休み時間には弱冠30才の先生が一緒になって遊びに加わったようです。本堂の軒下にあった鐘に小石を投げてチーンと鳴らしたり、鴨居に置いた算盤を取ろうとして天井から下がった釣り鐘に頭をぶつけて瘤を作ったり、やんちゃも盛んだったようです。
 葛生学館第8回卒業の永島信吉先生が卒業式に答辞を述べました。永島信吉先生は小学校教諭を経て旧制中学校教諭になり、佐野高等学校、佐野女子高等学校の国語の教諭を歴任されました。永島先生は永井成雄理事長の高等学校時代の恩師です。先生は万葉集や源氏物語など古文に造詣の深い先生でした。書は達筆で、黒板をかたかたいわせながらほれぼれする字を板書しました。講義は歯切れがよく、確然としていて佐高生を大いに啓発しました。
 答辞を述べた頃の回想を永島先生は50周年記念誌に綴っています。「本校もその内に文部大臣の認可を得て、正規の中学校となる日あらんことを望むということ、また、現在では卒業したとて何の資格もないのであるから、実力で行こう。そして他の学校以上の成果を挙げて薫陶の恩に報いようということを述べた。壇上で答辞を承けていた永井泰量先生は泣いた。
 その後、寺子屋学館は正規の中学校になった。私も小学校の代用教員から中等教員に昇った。知る限りの同窓生も各自の立場を立派に築き上げている。答辞のことばは無にしなかったとしてもらいたい。」
 池に入って鯉を捕まえようとした第1回卒業生の中田吾一氏は長じて鯉の養殖を手がけ、安佐地区の養鯉組合長を務めました。創立者の指導で英語に魅せられた第3回卒業生の片柳嘉平先生は高校英語の教師になり、生涯を高校教育に捧げました。片柳先生は烏山高等学校校長を退いた後、本校に戻って英語を担当し、後進の指導に当たりました。創立者永井泰量先生の謦咳に接した葛生学館の卒業生はそれぞれの分野で実力を発揮し、「随處に主となる」を実践しました。